宮城スタジアム Part3 特別編
「今年も、夏は東北で考える。」

 かつての自分なら、テレビ観戦で済ませていたであろう宮城での代表戦でした。しかし、夏休みに開催されるとわかり、昨年のU-20女子W杯に続いて、今年も宮城に足を運ぶことにしました。東北を訪ね、防災について、そして「生きる」ということについて考えたい、と思いました。計画当初は、昨年足を運んだ石巻が1年でどう変わったかも見ようと考えていたのですが、津波によって気仙沼に打ち上げられた第18共徳丸が保存されずに解体されることになるということを報道で知り、陸前高田と気仙沼を訪ねるルートにしました。昨年に引き続き東北に身を置き、一方で昨年とはちがう視点で、いろいろなことを考えさせられた一日でした。

 早朝の仙台駅。午前6時40分発の下り「はやて」に乗り込みます。通常、仙台から陸前高田に向かう一般的なルートは高速バス利用なのですが、予約制のため既に満席。そこでJRで向かうことにしました。現地での滞在時間を長くするために、あえて一関まで新幹線を使うことにしました。
 一関で大船渡線に乗り換えです。大船渡線には「ドラゴンレール」という愛称がつけられていて、龍のキャラクターのステッカーが車体に貼られています。お盆休みということで、地元客のほかにも私と同じように、被災地を訪ねてやってきたような感じの皆さんが多く乗車して出発しました。
 一関から一時間半近く、山地の中を縫うようにして三陸を目指していきます。緑一色の山あいの谷を東に向かっていく行程になりました。「終着駅」の気仙沼に到着し、下車します。
 鉄路はその先まで続いています。しかし、この先数キロメートルで鉄路は途切れています。次の駅は・・・なくなってしまったのです。ここからすぐ先なのに・・・。
 仮に南海トラフ大地震が起きてしまったら・・・鷲津駅から東を見た光景がこんな感じになるのでしょうか・・・一瞬、そんな恐ろしいことを考えてしまいました。(だって・・・東海道本線を西から向かってきて、初めて津波の被害を受けそうなところが、湖西市、それも鷲津駅から東、ですよね・・・。そんなことを考える私は不謹慎でしょうか? )
 途切れた鉄路の先をつないでいるのは、この「BRT」と呼ばれる代行バスです。「基本的に」従来大船渡線が走っていたところを結び、「基本的に」かつて駅があったところを停車場としています。このバスで三陸南部の海岸線を走り、陸前高田を目指します。車窓には、昨年東松島や石巻で見た時と同様に、痛々しい景色が広がります。あれから2年半、がれきは片付けられ、壊れかけた建物は取り壊され、生々しさは薄れています。しかし、不自然な空き地、コンクリートの基礎の跡やその間から生い茂る雑草たち、これらを見てしまうと・・・心が痛みます。
 前述したとおり、BRTは「基本的には」従来大船渡線の駅があったところに停車場を設置しています。しかし、夏休み中だけ期間限定で「陸前高田」の手前に臨時停車場「奇跡の一本松」を設置していました。陸前高田の駅で降りてここまで戻ってくるのであれば、ここで降りた方がいいか、ということで途中下車です。私と同じように、一本松を見に来た人たちが何人も下車しました。
 報道ですっかりおなじみになった、奇跡の一本松です。報道されているとおり、この木はもはや「本物の木」ではありません。津波に耐えたこの一本松は、塩水にさらされる中で腐食が進んでしまったため、樹脂を注入されるなどしてモニュメントとして再生されました。今後、ここは震災遺構として観光地になっていくのでしょう。実際、停車場からここまで、雑草が生い茂る原っぱの中に、舗装された遊歩道が仮設置されていました。震災遺構が観光地化し、震災が「過去のもの」になり始めている気配の中、それでも遊歩道脇の原っぱからは津波が運んだヘドロの臭いがそこはかとなく漂っていました。また、ぬかるみには、重機で踏み固められたと思われる瓦礫がぎっしりと埋まっていました。これらの瓦礫はあの日、あの時が来るまでは、おそらくこの街のどこかで、人々の生活を支える建物や生活道具の一部だったにちがいありません・・・。
 「奇跡の一本松」からやや東に向かったところにある、旧・道の駅「高田松原 タピック45」。45号線高田バイパス沿いにあり、ドライバーたちの癒しの場所であったはずでした・・・。
 しかし・・・建物内はこの有り様。剥き出しの鉄骨に、自然を前にした人間の無力さを感じました。この建物の後ろには、かつては緑豊かな松原が続いていたはずなのです。しかし、今はこの建物のすぐ後ろまで海水が入り込んでいます。松原は流され、地盤は沈下し、海に飲み込まれようとしています。建物の中には、松原から流されてきた松の木の幹が一本・・・。
 道の駅の前で営業しているガソリンスタンドです。しかし・・・看板を見ると、破損の跡が見えます。この看板は、震災の津波に耐えた看板で、あの日にはあの看板下部の高さまで津波が来ていたことが見て取れます。
 ちなみに、震災前のこの周辺の写真を見ると、このスタンドは震災前にもしっかりこの地で営業していたことがわかります。(周辺は、ファミレスやパチンコ店が立ち並び、都市郊外のバイパス沿線によくある商業地の風景、だったのです・・・。)元あった地に、元あった看板の下で、地域の復興を目指して営業を再開したこのスタンドに、敬意を表したいと思います。
 道の駅から東に進みます。この辺りは、報道にもよく登場したキャピタルホテルなどがあった辺りですが、ホテル自体は既に解体されていました。この建物はそのすぐそばにあったものですが、一体元は何だったのでしょう。キャピタルホテルは5階ぐらいまで津波に襲われたということなので、この建物は完全に水面下だったものと思われます。よくぞこれだけ残っていたものです。
 さらに東に進んだところにある、雇用促進住宅跡です。アパートの5階だけが元の形をとどめ、4階以下は窓ガラスがぶち抜かれた状態であることがわかります。その高さまで津波が来たのか、と思うと、絶望的な気分にさせられます。
 奇跡の一本松から気仙川をはさんですぐ西にある、旧気仙中学校校舎です。3階まで完全に津波にぶち抜かれています。建物から生徒たちの声は聞こえません。震災遺構として保存されることになるそうです。
 雑草が生い茂る草地が一面に広がる中、一本の道路が続いています。よく私の地元でも、郊外の農地に行くと、耕作放棄された畑の中の農道でこんな感じになっているところがあります。ただ・・・違和感を感じるのは、道にきちんとした歩道が設置され、そこに点字ブロックがついていること。郊外の農道に点字ブロックなんかつけますか?そう、ここは畑の中の農道なんかではありません。陸前高田の元中心市街地だった場所です。道の両脇には多くの家々や商店が続き、この道をまっすぐ行った先には市役所やショッピングセンター(あの、ニュースにもよく出ていたMAIYAです。)があったはずなのです。街が一つ消えてしまった、その事実が目の前に広がっているのでした。
 上の画像の通りをまっすぐに進んでいくと、ある交差点でこんなものを見つけました。左折車が歩道に乗り上げてこないよう、よく市街地で見かける車止めです。これが設置されていたことから、この場所が元市街地、それもかなり中心部の交差点であったことがわかります。しかし現在、この周辺は相変わらず雑草が生い茂る草地が続いているだけでした。そしてこの車止め、根元からこれだけねじ曲げられています。これを曲げた力の正体は・・・ここにあったはずの街を一瞬にして消し去った、あの津波なのです。
 バスに乗るため、陸前高田駅を探して雑草の草地の中をさまよいます。その途中で見つけたのがこのビルでした。屋上に塗られた青い表示と一本の線。3月11日の時の津波到達点を示しています。
 陸前高田のBRTの停車場を探し求めて草原の中をさまよいましたが、なかなか見つけられず、仕方なく一本松方向へ戻ろうと先ほどの車止めの交差点を海岸方向へと歩き始めました。しかし、その交差点から少し歩いたところのこの場所に、草っ原の中には不自然なロータリーと駐車場の跡とも思える白線を見つけました。その時はまだ、ここは何かの駐車場の跡だったのだろうか、ぐらいにしか思っていませんでした。しかし、この後、この画像に向かって回れ右をし、(つまり、画像の後ろ方向に)数メートル進んだ私は、次の光景を見て一瞬、言葉を失いました・・・。
 目の前に忽然と姿を現したのは、プラットホームの跡と、雑草が生い茂る線路の跡でした。そう、ここは、私が雑草生い茂る草地の中を彷徨いながら探していた陸前高田駅の跡でした・・・。一つの街の表玄関の跡が今は雑草に覆われ、人っ子一人いない草地の中に覆い隠されていました。これまでに見てきたどんな廃線跡よりも、もの悲しく、痛々しいものを感じました。
(でも、よく考えると、大船渡線はまだ廃線にはなっていないのですが。ちなみに、BRTの陸前高田停車場はこんな人っ子一人いない草地の中ではなく、さらに内陸に入ったところに移った市役所の仮庁舎の近くに移されたそうです・・・。)
 BRTで気仙沼に戻りました。鹿折唐桑に近づいたところで、陸前高田に向かう往路でも見かけた第18共徳丸が見えてきました。停車場のすぐそばです。早速下車しました。
 バスを降りてまず・・・その大きさに圧倒されました。そして、南に目をやり、港からの距離を推し量りました・・・が・・・遠い・・・。何となく遠くに港の気配が感じられるとはいえ、直接見ることはできません。それぐらい離れた距離のところから、転覆することなく、ここまで流されてきたということは・・・その時、一体何mの浸水があったのだろうか、と思わずにはいられませんでした。
 船は道路をふさぐ形で打ち上げられていました。その道を進んだところに少し高台っぽくなったところがあり、ベンチが並んでいるのが見えました。公園かな・・・、少し疲れたから、座って休もうか、と思い、その高台に上がってみると、そこは・・・。私は再び言葉を失いました。またもや、そこは駅。ベンチは駅の待合い用のものだったのです。船がふさいでいた道路は、国道から駅前広場に通じる駅前広場への入り口だったのです。
 船の周囲は、瓦礫こそ撤去されているものの、押し流された住宅のコンクリート基礎部分があちこちにそのまま残されていました。この船によって押しつぶされた家も多かったようで、この船を震災遺構として残すことを快く思わない地元の人がいるわけもわかるような気がしました。
 漁港のそばを抜け、市街に戻ります。秋刀魚漁船が秋の出漁に向け、準備が整っている様子。港湾設備も新しくなっていて、復興もかなり進んでいるようです。しかし・・・港には・・あちこちに爪痕が・・・。
 市街に戻ってきました。登録有形文化財にもなっている男山本店の本社屋も壊滅的な破壊を被っていましたが、現在は修理中の様子。お酒は作り続けているそうですし、早く改修工事を完了して、伝統の町なみを取り戻してほしいです。
 民家(商店?)の外壁に、この高さまで津波が来た、ということを示す線が引かれていました。2階の床よりもかなり上。そこまで水につかりながら、よくここまで街を立て直したものです・・・。
 この後、私は予約なしで仙台まで戻ることができる直行高速バスのバス乗り場を探して市内を彷徨いました。その時見つけたのが、復興屋台村の気仙沼横丁。入りたい気持ちは山々でしたが、仙台行きのバスの時刻が迫っていたので断念。で、結局仙台行きのバス乗り場も見つけられず。気仙沼の街の中を小1時間さまよい歩き、汗だくになり、足が棒になっただけでした・・・。だったら、寄っとけばよかった・・・。
 結局、往路と同じルートで一関へ戻り、新幹線で仙台まで戻りました。
 ホントにいろいろなことを考えた1日でした。
 自分なりにいろいろ考えてページを構成しましたが、中には失礼な点も多々あることと思います。お気づきの点がありましたら、どうぞお知らせください。私自身も勉強のつもりで改めさせていただきたいと思います。
 最後になりましたが、東日本大震災で被災された方々に心よりお見舞い申し上げるとともに、亡くなられた方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。