宮城スタジアム Part2 特別編
「忘れない、この夏を。そして、3.11を。」

 最後に紹介するのは宮城遠征2日目の私の足跡です。東日本大震災から1年半、被害の大きかった東松島町野蒜(のびる)地区、そして石巻市を歩いた記録です。震災後1年半、既にがれきはほとんど撤去されていました。しかし、目の前に広がる広大な空き地が、かつては大勢の人々の、家族のくらしがそこにあった住宅街だった、ということを思うと本当に心が痛みました。そして、東海地震、南海トラフ地震の脅威が迫る自らの地元を思いながら、いろいろなことを考えました。暑い夏、照りつける日差しの中で思ったこと、考えたこと・・・、生涯忘れることはないでしょう・・・。

 2日目の朝、仙台駅からJR仙石線に乗車し、松島海岸駅で下車しました。松島観光の玄関口でもあるこの駅ですが、ここからJRの代行バスが出発します。(電車はとなりの高城町まで行くのですが、バスはここから出ます。)この時間のバスは満席。私は補助席に座っての出発となりました。
 実は仙石線の車窓から外を眺めていると、本塩釜あたりから、窓の外に不自然な空き地が目につくようになっていました。それはおそらく津波の痕跡だろう、と思うと、胸が締め付けられるような思いを感じました。そしてこれより先に自分は進んでいいのだろうか、とも思いながら、代行バスに乗車しました。震災当時、東名(とうな)や野蒜(のびる)は、押し流された仙石線の車輌や、被災した駅舎の画像などがメディアで大きく取り上げられていました。そこで今回の訪問において、まずはこの地を訪ねてみよう、と決めていたのですが・・・。いざ、バスが東名にさしかかると・・・1階が破壊されて柱だけになった家屋、ブルーシートに覆われた家々、そんな窓の外の光景に心が凍りついてしまい、「降ります!」の声を運転手さんにかけることができませんでした。(貸切バスの車両を使っているので、降車ボタンがない!)次の野蒜ではほかにも降りる人がいたので、何とか私も立ち上がり、一緒に降りることができたのですが・・・。駅前に立って周囲を見回し、私は途方に暮れました。
 まずは海岸方面に歩いてみよう、と、駅から南へ向かって歩き始めました。上の写真の場所から、欄干が破壊され、手すりすらない橋を渡ったところから海側を臨んだ光景が左の写真です。(つまり、上の写真から回れ右をしたのが左の写真ということです。)遠くに松原。あの向こうが海岸なのでしょう。その手前には広大な空き地が広がっています。私はこの場所に立つのは初めてなので、あまり違和感を感じませんでしたが、この場所を知っている人はこの光景に心が痛むことでしょう。なぜなら、ここには多くの住宅や商店が建ち並ぶ「一つの集落」があったはずで、写真の左手には派出所や市民サービスセンター、右手にJAやガソリンスタンドが見えていたはずなのに、そこが一面の空き地になっているのですから・・・。
 海岸に向かう一本道を歩いていくと、右手の空き地の向こうに学校らしき建物が見えました。窓は破れ、中はがらんどうの様子。当然、今は使われていません。学校には後で近づくことにして、まずは海岸に向かいました。
 海岸に向かってまっすぐ進んでいく道沿いにあった街灯の跡です。津波の勢いは街灯のポールを押し倒してしまっていました。津波の力、怖さを無言で語りかけます。帰宅後、グーグルの「未来へのキオク」というサイトの中にあるストリートビューで見てみると、震災前の押し倒される前のこの街灯、そして震災直後の押し倒され、ねじ曲げられたこの街灯、いずれにもこの街灯が写っていました・・・。
 海岸沿いの松林の脇を走る「奥松島パークライン」沿いに、押し倒された道路標識と、津波の指定避難地を示す看板がありました。ここで、あの廃墟になった学校が「鳴瀬第二中学校」というのだということがわかりました。
 そのすぐ脇に「津波避難路マップ」も押し倒されて砂に埋もれていました。このマップも震災前のストリートビューにしっかりと写っています。この地区も過去の教訓をもとに防災対策が立てられ、海岸近くにいる時に地震が来たらこうしよう、ということもいろいろ考えられていたのでしょう。しかし、実際にやってきた津波はそれをはるかに超えるものだったということなのでしょう。
 海岸から離れ、先ほど見かけた鳴瀬第二中学校に近づいてみました。学校への道沿いにはかつては住宅地だった跡があり、コンクリート製の住宅基礎や、石造りの名字が刻印された門柱が残っていて、そこにビンに生けられた花が置かれているのを見てしまうと、さすがにデジカメを向けることができませんでした。そして、ここに平穏な家族の生活があったのかと思うと心が痛みました。
 この学校は、震災当日の午前中、卒業式が行われていて、その午後に被災したということで、報道でも多く取り上げられていたということを帰宅後に知りました。津波が校舎と体育館を突き抜け、部活動等で残っていた生徒たちが上層階へ避難し、助けを求めたそうです。
 校舎壁の時計は3時48分ぐらいを示していました。津波が襲った時間なのか、電気が途絶えた時間なのかはわかりません。私が見た時にはもうありませんでしたが、被災直後には校舎に取り残された人が救出を求めて窓に貼り付けた「SOS」と書かれた大きな紙が残っていたそうです。学校敷地内に入るのはよくないと思い、敷地の境界線からズームで撮影しました。運動場はすっかり草ぼうぼうの状態、運動場のすみには積み上げられた学習机が見られました。
 駅に向かって来た道を戻って歩きます。これは市民サービスセンターの跡で、3枚目の画像の左手にあたります。1階だけでなく、2階も破壊されて中はがらんどうです。このとなりには派出所があったはずですが、全く何もなし。ビンに花が生けられ、折りたたみのパイプ椅子が置かれていました。
 報道でもよく取り上げられたJR仙石線の野蒜駅です。がれきは撤去され、さながら普通の廃線跡のように見えます。しかし、架線が垂れ下がり、支柱が傾いている様子が震災の脅威を今に伝えています。そして、ここはまだ廃線ではありません。復旧を待つ、現役の仙石線の駅なのです。
 駅周辺には、破壊された家もあれば、大きな被害を受けることなく、今でも普通に人が生活している家もありました。何がこのちがいを分けたのだろう。被害を受けないわけがあったのか、それとも1年半で修繕したのか?疑問が残りました。
 野蒜地区を歩いた後、駅前で代行バスを待って東に向かいました。バスは矢本駅が終点。ここで電車に乗り換えます。仙石線のこの不通区間は山側に路線を移設しての復旧を考えている様子で、線路でつながるまでにはまだ当分かかりそうです。
 電車でもう一つの目的地、石巻に到着しました。宮城県第二の都市ですが、この町も震災で大きな被害を受けました。
 駅に到着していきなり、厳しい現実を目にしました。駅の線路が終わる車止めに、震災時に津波が来た高さが表示されていました。まず、海から結構離れているこの駅まで津波が来ていたということに驚き。そしてその高さに驚き。画像の赤いラインが津波が浸水した高さなのですが、後ろの駅前広場に駐車している車の高さと比較してください。車の屋根の高さを完全に超えています。この駅の場所で、既にかなりの高さまで浸水していたことがわかります。
 石巻は石ノ森章太郎のマンガキャラクターで町おこしをしているため、市内あちこちに石ノ森章太郎作品のキャラクターの等身大フィギュアが立っています。市役所前には仮面ライダー。ちなみにこの市役所、撤退した百貨店+シネコンの建物をそのまま利用しているとのことで、建物の造りもまさにショッピングセンターです。
 港方面に向かって町を歩いてみました。街はかなり平静を取り戻している様子ですが、海に近づくにつれて、このようにがれきこそ撤去されているものの、1階はがらんどうになっている商店やビルが目につくようになります。中には「ここまで浸水した」のように表示してある店もありました。
 旧北上川沿いに出ると、このような津波に破壊された家々が多く見られるようになりました。まだ新しいと思われるこの家(アパート?)にも、人々の生活があったはずです。後ろに見える丸い屋根の建物は石ノ森漫画館。震災の被害を受け、閉鎖中とのこと。
 旧北上川対岸には、工場なのか、漁業施設なのか。こんな感じの建物がいくつも続いて並んでいました。
 震災前の地図を見ると、ここには老人ホームがあったはず・・・。土台だけ残ってあとは全くなし。全て流されたのか、それとも少しは建物が残っていたけれど解体したのかはわかりません・・・。
 旧北上川沿いから少し内陸に向かって歩きました。しばらく進むと学校の校舎が姿を現しました。しかし・・・窓が打ち破られているだけでなく、その壁面、そして教室と思われる内部はまるで焼け焦げたかのように黒ずんでいました。石巻市立門脇(かどのわき)小学校。2011年の紅白歌合戦で、長渕剛がここから鎮魂の思いを込めて中継で歌を歌った場所です。
 津波が押し寄せ、まず校舎の低層部が被災。続いて、津波に流された車から出火し、それが校舎に燃え移って大変なことになってしまったと伝えられています。ちなみにその時この学校にいた児童は、裏山に避難して難を逃れたとのこと。とはいえ、火と水の両方によって避難所にもなっていた学校を追われる心境はいかなるものなのでしょうか。屋上に掲げられた「すこやかに育て心と体」というスローガンが痛々しく心に突き刺さります。
 小学校から少し西に進んだところから石巻湾方向を臨みます。一面に広がる更地ですが、そこかしこに住宅の基礎らしきものが見られます。そしてこちらにもビンに生けられた花たちが・・・。あとでgoogleの地図を見てみると、ここは「集落」なんてものではなく、「まち」があったはずの場所なのです。幹線道路沿いに商店、住宅、公共施設、工場、公園・・・ここで私は一つ気づきました。この「まち」の構造、私の地元に似ているのです。海岸があり、そこから少し入ったところに幹線道路が通り、それに沿うように住宅や商店などの新市街地が並ぶ光景。その奥、海から1q程度の所に小学校があり、その裏手に山。その越えた反対側には駅を含む旧市街地。そして街の東側には海とつながっている川(私の地元は川とは違うが、ま、似たようなものが。)・・・、この一つのまちがすっかりと消えてしまった石巻の姿は、将来南海トラフ地震の後の私の住む町なのかもしれない、そう思うと本当に重いものを感じました。
 帰宅してからネットで検索しながらわかったのですが、この時私の立っていたところは、地震の後に幼稚園の送迎バスが津波に巻き込まれて、園児らが犠牲になったあたりだったようです。遠くを臨むと、がれきを集めた山が見えました。ネットで検索すると、震災直後のこのあたりの画像がいくつか見つかりましたが、流された車、家々の残骸、何だかわからない木くずや鉄骨類などなどが散乱していて、それらをかき分けながら行方不明者を捜すという状態だったようです。それらが一応片付けられ、このように積み上げられていたのでしょう。
 日本製紙の工場の脇を抜け、再び駅方面に戻って歩きます。途中で石巻日々新聞の社屋を見つけました。震災時に印刷機がだめになっても手書きで壁新聞を発行し続けた、あの新聞社です。
 石巻駅からは、行きと同じルートを逆にたどって仙台に戻りました。途中の矢本駅で代行バスに乗り換えるところでは、往路同様に心が痛みました。この線路が再び高城町からつながるのはいつのことになるのか、このバスの沿線が再び「日常」を取り戻すことができるのはいつのことになるのか・・・。思うのは、この今の状態が「日常」になってしまうことなく、人々が未来に向かい希望をもって生きていける日が来ることを願うばかりです。
 自分なりにいろいろ考えてページを構成しましたが、失礼な点も多々あったことと思います。お気づきの点がありましたら、どうぞお知らせください。私自身も勉強のつもりで改めさせていただきたいと思います。
 最後になりましたが、東日本大震災で被災された方々に心よりお見舞い申し上げるとともに、亡くなられた方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。